あああ  h.n の Stay hungry.Stay foolish.: 2011

2011年8月6日土曜日

 
 
 

原爆の日
  
  

【原爆の日】



今日は66回目の「原爆の日」です。


私は一時期、広島を離れ東京にいたのですが、近年、広島に戻ってきて、
改めて「原爆の日」を意識するようになりました。


史跡を含め、平和記念公園が身近にあることも影響しているからでしょうが、
テレビ、新聞などのローカル枠で8月になると度々目にすることが大きいと感じています。



いま課題となっているのが、歴史の風化です。
被爆された方々も高齢となり、若い世代へ伝えて行く場が減りつつあります。


また、前述しましたが、原爆・戦争についてローカル枠にとどまっているように感じます。
辛辣な言い方をすると、
唯一の原爆被爆国である日本ではなく、
原爆被爆地であるヒロシマとナガサキという印象を強く受けます。


私が感じたことなので全てが正しいわけではありませんが、戦争・平和・原爆に対する意識は、
ヒロシマ・ナガサキと他県では大きな温度差があります。
日本は敗戦後、戦争自体身近なものではなくなりましたし(敢えていうと平和ボケ)、
原爆・戦争教育も他県ではさほど重点を置かれてきていないようです。


東京では、全国から人が集まる環境に身をおいていましたが、
ヒロシマの8月6日 8時15分、ナガサキの8月9日 11時2分をほとんどの人が知らなかったことに驚愕したのを覚えています。


ヒロシマとナガサキは、戦争という愚かな過ちは繰り返さないと毎年祈り続けてきました。
が、全国に発信して行く、さらにはアメリカを中心とした世界へ発信して行くよう(今までもやってきてはいるのですが・・・)、個人も何かしら方法を模索し、市のトップ、国のトップは今まで以上に発信力を強めて欲しいと思います。


オバマ大統領は「核兵器のない世界を目指す」と謳い核軍縮を行ってきましたが、核実験は依然として続けられていることをご存知でしょうか。
今日の時点で、最後の核実験が行われてから128日目です。
逆を言うと128日前に核実験が行われたということです。


戦争・核兵器のない平和な世界、絵に描いた餅かもしれませんが、希求しない限り実現はしません。



以下、個人的な戦争観を簡単に述べます。



【太平洋戦争】


太平洋戦争の開戦についてのキーワードは
「オレンジ計画」「ABCD包囲網」「ハルノート」です。
これらの資料はインターネットで検索すれば様々な立場で語られているのでご自身で判断されてみてください。
私が感じるのは、戦争に正義と悪は存在しないということです。
戦時下で倫理的な行動をとると逆に蹂躙されてしまうだけです。


そして戦争は「勝てば官軍」なのです。


極東裁判しかり、敗戦国に責任が押し付けられます。
当時の国際法では「非戦闘員(一般市民)に危害は加えてはならない」とされています。これに照らせば、原爆を投下し、数十万人の市民(非戦闘員)の命を奪った当時の米大統領・トルーマン、原爆投下を立案・実践した軍人は明らかに戦犯です。


似たような事例に、記憶に新しいイラク戦争があります。
大量の破壊兵器をイラクが所持していることを根拠にアメリカは戦争を始めますが、破壊兵器の存在は認められませんでした。にもかかわらず、ブッシュ大統領は大して責任追求されていません。


この度の東北大震災では「トモダチ作戦」と称してアメリカは日本を支援してくれました。また、個人レベルでは、レディ・ガガさんをはじめとする著名人の方々が寄付をしてくれ、一日本人として感謝しています。アメリカの人たち、文化など好きです。


しかしながら、アメリカがやること全てが正義だと傾倒はできません。



【アメリカ人の50%は原爆投下が正しかったと考えている】


おそらく日本人の中にも必要悪だったと考えている方もいるでしょう。
※個人的な感想では、原爆万歳という教育がされている中で50%というのは少ないのかなとも感じています。
 ヒロシマ・ナガサキに投下された原爆「リトルボーイ」と「ファットマン」の隠語の意味を知れば当時のアメリカの軽率さを認識せざるを得ない方もいるのかもしれません。
 被害の残虐さを知れば必ずしも正しいとはいえないでしょう



原爆投下の動機は以下の3点といわれています。

 1)戦争の早期決着、及び被害の最小化
 2)旧ソ連をはじめとする共産圏へのけん制
 3)原爆の実戦投入、及びデータ収集

3)はやりたかったのでしょう。それ以上言葉が見つかりません。
1)2)に関しては他の方法があったかもしれませんが、当時の日本軍部は本土決戦もやむなしという姿勢だったそうですから、原爆投下によるダメージは早期決着、被害の最小限化につながったのかもしれません。


ただ、忘れてはならないのが、原爆投下は有史以来、最も残虐極まりない爆撃であったということです。

そして戦争は理不尽極まりない争いであり、戦時下では人の命が極端に軽いものになってしまうということです。
 



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2011年8月5日金曜日

 
 
 

原爆の日を前に  原爆ドーム
  
  

今回は、「原爆ドーム」です。



【原爆ドーム】

原爆の惨禍の象徴



凄惨な破壊の象徴



核兵器の恐ろしさ、そして世界平和の希求を今も訴え続けています。



1992年、世界遺産に登録されましたが、人類が創造したものを自ら破壊した史跡として、他の世界遺産とは一線を画した「負の遺産」として認知されています。


この遺産を前にすると背筋がざわざわと疼くのです。



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2011年8月4日木曜日

 
 
 

原爆の日を前に  原爆投下目標地点 相生橋
  
  

今回は、原爆投下目標地点についてです。



【相生橋】

みなさんご存知かと思われますが、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、、B-29爆撃機(通称:エノラ・ゲイ)によって、ヒロシマに原子爆弾が投下されました。核兵器が有史以来初めて実戦使用された瞬間です。
この一発の爆弾によって、広島市の人口の半分弱、14万人が死亡したといわれています。


当時のアメリカ軍の作戦は、

 1)攻撃日 8月6日
 2)攻撃目標 広島中心部と工業地域
 3)予備第2目標 小倉造兵廠および同市中心部
 4)予備第3目標 長崎市中心部
 5)特別指令 目視投下に限ること

だったそうです。

※8月9日の原爆投下は当初、第2目標の小倉でしたが天候不良により視界が悪かったため、第3目標の長崎市に変更されたそうです。


8月6日午前8時15分の広島市街地上空は晴れでした。したがって計画通り原子爆弾が投下されました。
作戦の5点目、「特別指令 目視投下」の目印にされたのが、T字型という特異な形状をしている「相生橋」です。



エノラ・ゲイが実際に原爆を投下したとされる高度9,600mからみた広島市です。
ほぼ中心に位置し、T字型の「相生橋」が確認できると思います(赤丸で囲った部分)。



みなさんご存知の「原爆ドーム」と「相生橋」の位置関係です(上空1,000m)。
実際の爆心地は、相生橋からずれて、原爆ドームのやや南東といわれています。



原爆投下前後の爆心地付近の写真です(ウィキペディアより転載)。
言うまでもありませんが、左が投下前、右が投下後の写真です。
投下後の写真、全てが消し去られています。



核分裂で発生した火球の表面温度は数万度、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍で地表温度は3,000~6,000℃、爆風は強い台風の中心風速の10倍と同程度の凄まじい破壊力だったそうです。


当時は木造家屋が主でしたが、熱線と爆風により爆心地から半径約3km圏内の家屋は全壊・全焼したそうです。爆心地は一瞬にして音速を超える爆風の衝撃波と熱により、家屋は倒壊・焼失、あらゆる命が消えました。


『はだしのゲン』を読んだことがある方はご存知かと思いますが、人智を超える熱線を浴びた人は体内の水分が蒸発し炭化、また手すりを持ったままの状態で炭化した遺体をのせ惰性で動く市内電車が描かれています。



話は少しそれますが、この度東北大震災が発生し、福島第一原発で事故が発生しました。
福島第一原発の事故は未だ収束の目処も立っていないような状態です。
アルピニストの野口健さんが「福島第一原発、20キロ圏内の世界」と題し現地で犠牲になっている家畜についてレポートされています。その惨状は上記『はだしのゲン』を想起させる凄惨な光景です。

アルピニストの野口健さんのブログ「福島第一原発、20キロ圏内の世界」※かなり衝撃的な写真が掲載されています。ご留意ください。


チェルノブイリ、スリーマイル、福島第一原発。
チェルノブイリは今ある石棺をさらに包み込む石棺を用意し放射能漏れに対処する始末。
原爆(核兵器)の人智を超える破壊力。


人間はあたかも核エネルギーを自在に操れるようになったと錯覚しがちですが、とても人間が制御できる代物とは思えません。


原子力発電の安全神話が崩れた今、地震国である日本にとって原発は極めて不安(危険)要素であると思います。今すぐ国内全ての原発を廃炉するのは不可能ですが、脱原発依存は必要になってくるのではないでしょうか。



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2011年8月3日水曜日

 
 
 

原爆の日を前に  原爆の子の像
  
  

今回は、「原爆の子の像」をご紹介します。



【原爆の子の像】

別名「千羽鶴の塔」、「佐々木貞子さんの碑」とも呼ばれ平和記念公園を象徴する像のひとつです。


佐々木貞子さんは2歳のとき「黒い雨」を浴び被曝。
そして約10年後に被曝による後遺症により白血病を患い入院したそうです。
貞子さんは病床で快復を祈り千羽鶴を折ったそうですが、12歳という若さでなくなってしまいました。


貞子さんの死後、彼女の級友たちが発起人となり全国、全世界的にに募金活動が行われ、現在の「原爆の子の像」が建立されたそうです。


「原爆の子の像」には毎年多くの千羽鶴が、全国から訪れる人たちによってたむけられています。



2002年に雨よけ対策として千羽鶴を収納するためのケースが設置されました。
一方で度重なる放火対策でもあることが嘆かわしく思います。



いわゆる千羽鶴だけでなく、鶴で作成したメッセージボードも学生を中心に全国から奉げられています。




碑文 『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』




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2011年8月2日火曜日

 
 
 

原爆の日を前に  峠三吉 にんげんをかえせ
  
  

今回は、峠三吉詩碑ほか、いくつかの慰霊碑をご紹介します。



【峠三吉詩碑】

 ちちをかえせ ははをかえせ 
 としよりをかえせ 
 こどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる 
 にんげんをかえせ

 にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
 くずれぬへいわを 
 へいわをかえせ 




原爆がもたらした悲惨さ、峠三吉さんの想いがまっすぐに胸に響いてくる詩です。


この詩は峠三吉さんの「原爆詩集」の序として収められています。
また、峠三吉さんは「原爆詩集」の冒頭で以下の言葉を遺しています。


『一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人に捧ぐ。』



【原爆供養塔】

被爆後、この辺りは無数の遺体が散乱しており供養塔付近で火葬したそうです。
原爆供養塔には7万人もの引き取り手がいない、身元が判明しない遺骨が納められているそうです。
その中には、米軍捕虜、朝鮮人、中国人も含まれています。

毎年8月6日には、宗教の壁を越え合同慰霊祭が営まれています。




【韓国人原爆犠牲者慰霊碑】

当時の広島は軍事工業都市でした。
労働力として朝鮮半島から多くの朝鮮人が徴用されていました。その数は約10万人。
そのうちの約2万人が原爆の犠牲になったといわれています。


当初、韓国人原爆犠牲者慰霊碑は平和公園の敷地外にあり「差別」の象徴といわれていました。
現に今でも「在日」という言葉がなくならず、日本人の中に朝鮮人に対する差別意識が残っているのは確かでしょう。


最近、当慰霊碑は平和公園の敷地内に移設されましたが、ペンキがかけられる事件も発生しています。



現在、日本では「韓流」が流行して、さも日韓は親睦関係が深いと錯覚しがちですが、日本人の「在日」という差別意識と同様に、韓国も日本を蔑視している一面を持つ国であることを認知する必要があると感じます。

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韓国の反日思想については今回は触れません。
興味のある方はこちらのサイトを参照してください。客観的にまとめられているサイトだとと思います。⇒韓国は“なぜ”反日か? 
愛国(反韓)寄りすぎると感じる方もいるかと思いますが、韓国の子供が描いた絵を見てください。歪んだ反日感情の一面を垣間見ることができます。
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「核兵器廃絶」よりも解決が難しいかもしれない「人種(民族)差別」は未だ根強く残っています。



【平和の鐘】

核戦争のない、平和共存できる世界の実現を願い、原爆被災者広島悲願結晶の会によって建立されました。
「残したい日本の音風景100選」に選定されています。
平和記念公園を訪れた際は是非鳴らしてみてください。心が鎮まる音色です。




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2011年8月1日月曜日

 
 
 

原爆の日を前に  嵐の中の母子像
  
  

今年も広島の原爆の日が近づいてまいりました。


戦争とは、平和とは、原爆とは、核とは。
私自身、今一度、平和記念公園を中心にゆかりのある慰霊碑、像、遺産を巡り、考え学び直したいと思います。



【嵐の中の母子像】

母親が、わが子を守ろうと、右腕で乳飲み子をしっかりと抱きかかえています。
左腕でもう一人の幼子をはぐれないように掴んでいるのでしょうか。それとも、背負おうとしているのでしょうか。
幼子も母親から離れまいと、ひしとしがみついています。


そして、母親は前かがみの姿勢です。
物理的には、原爆での爆風、嵐なのでしょうが、戦争が起こす悲惨さ残酷さに抗い、前に進もうとする必死さが伝わってきます。


個人的な拡大解釈をします。
この母子の像は原爆だけに当てはまるものでしょうか。
過去、日本が戦争で侵攻した場所でも、母子が同じような姿をしているのではないでしょうか?
今なお世界中で起こっている戦争、紛争下の母子も同じような姿をしているのではないでしょうか?
そう思いこの母子像を見上げると、胸が痛くなるのです。


製作者は本郷新さん。
1959(昭和34)年、第5回原水爆禁止世界大会開催の際、原水爆禁止日本協議会から寄贈されたそうです。当時は石膏像だったそうです。
その後、広島市婦人会連合会が募金活動を行い現在のブロンズ像を寄贈したそうです。



【広島平和記念資料館(原爆資料館)】

原爆の悲惨さを伝える資料館です。位置は「嵐の中の母子像」の真後ろになります。
「本館(重要文化財に指定されている)」と「東館」で構成されています。


「東館」では戦争の経緯を写真などで説明したパネルが展示されています。
基本的に歴史の確認のような内容なので、比較的ライトな感覚で見学できまが「本館」を見学するための予習と考えるべきです。
「原爆資料館」の価値は「本館」に凝縮されています。
「本館」の見学に意味があり、「東館」はおまけだと私は思っています。
※実際、当初は本館のみで最近(といっても20年以上前ですが)東館が追加されています。


「本館」には実際の惨状を物語る写真、ジオラマ、そして目をそむけたくなる現物が展示されています。
全身火傷をした人の写真、被爆死した学生の遺品である「黒こげの弁当箱」、原爆の熱線で階段に人の影が焼きついた「人影の石」などが展示されています。
また、高熱を浴び手足の皮膚が溶け垂れ下がった状態で荒廃した地を彷徨う等身大の人形も展示されています。


「東館」ができる以前の「原爆資料館」は異様な雰囲気に包まれていたように思います。
上記の人形の前では小さい子は恐怖で泣き叫び阿鼻叫喚の様相を呈していました。
私も、幼心に恐怖を感じたのを覚えています。


展示物の一部が下記サイトで紹介されています。
平和記念資料館(西館)



【被爆したアオギリ】

もともとは、爆心地から約1.5km離れた逓信局(現在の中国郵政局)に3本植えられていたそうです。
被爆時、原爆の爆風・熱風により、葉はもちろんのこと、幹も半分が焼かれ消失したそうです。


被爆当時は、広島には向こう75年間は草木が生えないだろうと言われていましたそうですが、翌年の春に、この枯れ木同然だった3本のアオギリから新芽が出たそうです。
原爆に屈せず生き続けるアオギリの姿は、絶望の中にいた人々に希望を与えたといいます。


1973年に現在の平和記念公園の敷地内に移植されましたが、1本は枯れてしまい現存するのは2本になっています。
下の写真では、3本のアオギリが植えられているのを確認できると思います。
左の2本が被爆したアオギリ。一番右のアオギリは「被爆アオギリ2世」です。
アオギリ2世は、現在「平和の使者」として全国に送られ大切に育てられているようです。


焼けた幹肌を包み込むように新しい幹が覆っているのが分かります。


「被爆したアオギリ」は、今なお、戦争の凄惨さ、生きることの尊さを伝え続けてくれています。



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